ここには何もありません
何を伝えたいのか訊かれる機会はたびたびあったが特に何も無いというのが本音で、私はただ自分の手足が自分の意思で動く様を暗闇のなか観察している。我思う故に我在りと我思うが、その在り方にはどんな確証も存在しない。
むかし山奥で野外泊したとき暗闇に飲み込まれそうになった。薄もやに覆われた広大な湖畔の夜、懐中電灯は一筋の光線を成すばかりで、一歩ずつ足の踏み場を確かめるのが精一杯だった。行く手に手探りのあては無く、月の在りかも自分の居場所もよく分からない。照らされるものが無ければ光は役に立たないのだ。
立ち止まって明かりを消すと、周囲が全くの無音であることに気がついた。多少なり星影の現れることを期待したが見渡す限り天も地も無い。一切は無限遠の暗闇であり、ただ現在地に暗闇を吸っては吐き出す場違いな袋が浮かんでいる。試しに呼吸も止めてみると脈拍だけが居残って、何を思わずともだんだん息苦しさの募る故に我在りと我思う。
次第に目を開けているのか閉じているのか分からなくなり、手足の所在が不明瞭になって、意識が宙に溶け出していくのを感じた。舞台が暗転すると非常灯や観客が目について現実へ引き戻されることがあるが、夜の山中では暗闇こそが現実だと思い知るのだった。日に照らされた場所は特殊な環境であり、夜空が宇宙の本来の姿であって、星や生物の内部もまた暗闇の中に成立している。万物は遅かれ早かれ暗闇に没して在りし日の面影を失う。花火のように咲いては消えるのが自然の成り行きであって、その点に恐怖や諦めの気持ちは湧いてこない。全ては暗闇の内に含まれている。
そうして浸透圧差の無い虚空を漂いながら、海底に佇む三脚魚のことを考えた。次いで、彼らが発見されなかった場合の世界について想像した。人間が魚のことを考えているのか、魚が人間のことを考えているのか定かでないが、どちらであっても違いは無いように思えた。おそらく相手は空想上の何かであっても構わない。三脚魚の実在も自分で確かめたことは無い。
世界はレスポンシブにデザインされていて、閲覧する側が形や量を決めている。誰もいない森の中で木が倒れても音はしないし、箱の猫の生死は最初の観測者が決めている。だが最後の観測者の生死は誰が決めるのだろう。最後の一人となった時点で死んでいるのだろうか。
この暗闇を思い出すとき、自分はいつでもここに戻ってこられると思った。差分を取るため誰かれ構わず巻き添えにすることがあるかもしれない。だがそのとき私たちは、何者にもなり得るだろうと信じている。
17-07-20 9:30 , お話 , Commentaires (0) , ↑
文化テロル
そんなわけでGW中は客人を迎えたり絵を眺めたりしていた。たまには普通の日記も書こうと思う。
あらかじめ断っておくと私は普通の日記をウェブ上にばらまくという行為が嫌いで、個人的な毎日の記録などは玉石混淆のウェブ情報をさらに混濁させるだけのうんこだと思っている。うんこは一人で始末すべき、せめてSNSで蓋をすべき、セマンティックウェブよ早く濾過機能を、と考えている。たぶん、他人との親睦云々よりも読書の延長、議論の場としてウェブを扱っているせいだろう。誰が書いているかよりも、何を書いているかの方を重視している。
だが最近はTwitterの影響もあって、何気ないうんこの波にも価値を見いだせるようになってきた。今や世界中の個人の営みをリアルタイムで追える時代、そこに溢れているのは全て人類の生きる姿、余計な偏見が減って世界平和に近づくかもしれないな、と感慨深くなった辺りで気分が悪くなり、排泄物に例えたことを後悔し始めた。以後うんこを土壌ルネサンスと呼ぶ。
とはいえ、かたや芸術とかエンタメとか呼ばれる美文名文も、みんな排泄物の範疇なのだろうとは思う。そこへ周囲が勝手な付加価値を見いだしているだけなのだろうと。
そしてどの土壌ルネサンスが、やっぱりうんこでいいやどのうんこが、他者の糧へと昇華するのかはその時になるまで分からない。毎回隠れファンを励ましているかもしれないし、一億と二千年あとに発掘されて博物館に碑文で飾られるかもしれない。
果たして気晴らしのチラ裏日記は、どの水準から読み手側の気晴らしにもなりうるのだろうか。結局は相性次第だろうか。少なくとも本人の文体練習にはなっているわけで、皆が好き放題に路上ライブするぐらいの有益性はありそうだが。
玉石混淆の石の部分も、実は全て何かの原石なのかもしれない。
前置きの方が長くなったが、こうした打算的な自分への戒めも込めて春の院展を鑑賞してきた。院展は日本絵画珠玉の殿堂である。
素晴らしいとされている絵は、果たしてどれほど素晴らしいのか。
結論から言えば大変素晴らしかったわけだが、技術面のことはよく分からない。とりあえず空気の変え方が違ったと思う。
題名だけ並べると、山好きとしては『対岸の冬』、汚れた二十代としては『夜空に夢』、花泥棒的には『惜春』などが特に効いた。あとは『海しぐれ』に吹く向かい風、『葉音』から溢れる樹のざわめき、『花のかげに』の巧みな視線誘導などが印象深かった。というより、いま題名がうろ覚えなだけで大体の作品が印象深かった。
6年前に訪れたときは「さすがに皆さん上手だな」ぐらいにしか思わなかったが、私も大学生活を経て大体の空気を読める子に育ったようだ。絵画や書といった静的な視覚情報は、観客が自らの変遷をたどるのに最適だと思う。見る者の思い出の数によって絵の価値は大きく変わる。院展の入場客がご年配の方ばかりであったのも、決して秋田が田舎なせいばかりではない。そして秋田も別にそこまで田舎ではないし、日本一四季のはっきりした美しい県なのでみんな早く引越してくれば良い。
ちなみにGW中、他県の人たちを迎えたときは何故かその日だけ土砂降りでおすすめ店舗も満員、なんら地元の良いところをアピール出来なかった。今度誰か来たら太平山でも縦走させようと思っている。
08-05-09 23:45 , 日誌 , Commentaires (6) , ↑
失われた時を求めて
先週火曜に、雨乞い番長、きゃわ、花泥棒の3人で宴を開いた。
きゃわは腕周りが番長の倍ぐらいあるシュルレアリストで、大体の岩を砕く。
そこでまずは、「完膚無きまでに」と言って乾杯した。
花泥棒は完膚無きまでに酔い潰れた。
今回は残された僅かな手掛かりを元に、当時の状況を推理してみようと思う。
こうした翌朝は大抵、携帯によく分からない発信履歴が残っているものだ。
その晩は4件あった。
1件目はえこなだった。
会話の筋は曖昧だが、秘書付きの重役みたいな声で「楽しそうだな。貧乏人は麦を飲め」と言われた気がする。
以後気をつけますと言ってジョッキを6つ9つ追加した気がする。
リア充にいじめ抜かれた挙げ句の肝不全そして記憶喪失、これが事実なら謝罪と賠償を要求すべきだろう。
2件目はいわしだった。
開口一番に「排他的経済水域」や「外国人参政権」などの単語が出れば即座にネタ帳へまとめそうなものだが、特にそうした痕跡は見あたらない。
ゴルフの実況中継よろしく淡々と女体や文体の話をされていれば素面に戻っていた可能性が高く、これも今回は無かったと考えるのが妥当である。
事実この辺りはネタ抜きにしても全く記憶が残っておらず、マジでちょっと不安である。
おそらくトリブロ株の動向や、真心さんいつ開催ですか、真心さんいつ開催ですかなどの話をしたのだろう。
3件目は117だった。
写メ乞い番長を通報しようとして掛け間違えたのだと思う。
きゃわが「法規、満足してないよ?」とたしなめながら何かを圧搾していたのは覚えている。
4件目はえこなだった。
えこなを通報しようとしたのかもしれない。
サスペンス映画の予告編みたいな声で「何が望みだ」と囁かれた気がする。
望み通り日本酒を空けたあと、言葉を遮るためだけに煙草に火をつけた気がする。
非喫煙者の方々のために申し添えておくと、飲酒中の喫煙は殊更に体への負担が大きい。
視界と理性はある程度回復するが、加減を誤るとその場で9度8分並の健康障害に苛まれる。
危うくえこなにはめられるところだったのである。
これだけ思い出せれば十分だろう。
改めてまとめるまでもないとは思うが、以上の文章も飲みながら書いた。
酔っていたときの記憶は酔いながら思い出すのが一番と考えていたが、これは大正解だったと思う。
酔ったときの花泥棒はろくでもない言動に充ち満ちているということが、ここで改めて実証されたわけだ。
宴会当時もどうせろくでもない言動に充ち満ちていたものと判断し、存分に己が酒乱を悔い改めれば良かろう。
ただし本人は既に十分反省しているので、これ以上特に皆様が腹を立てる必要は無い。
山本山さんの名言を借りれば、ご容赦頂く事もやぶさかではない。
新緑の爽やかな季節となりました。皆様いかがお過ごしでしょうか。
08-05-06 22:35 , 日誌 , Commentaires (4) , ↑