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Round Table

酔っぱらいの歴史 / マーク・フォーサイズ(著), 篠儀直子(翻訳)

 新年度からまた宴の数が増えてきた。飲酒に関してはだいたいやりきったつもりでいるので、できればイチローのような形で引退したい。貫いたのは酒への愛。今後については不透明だけど、明日もトレーニングはする。
 今回は書評です。向上心のある人が真面目に書評を書くとだいたい悪口になるね。何様っていう。でも互いの素性を気にせず情報交換できるのが文明社会じゃないですか。相手が何様なのかをいちいち気にしてしまうのは貴様の病気かもしれないし、外野同士を眺めれば貴方こそどちら様って話です。
 掲題の本は歴史上の様々な飲み会へ連れ出してくれるので、酒好きの方はどなた様も気に入ると思う。昔の人たちも飲んだり飲まれたり、慎むことに失敗したりで親近感が湧いてくる。歴史や異文化を研究するときの親近感はとても重要で、対象よりも自分自身を知るために追究しているところがありますね。
 本書も自分探しの一環として熱烈な調査研究のうえに書かれたはずだけど、どこまでが本当の成果なのかよく分からなかった。当代一流の皮肉表現が随所に挟まれているため田舎者が読むには難しいのです。いっそ京ことばに訳された方が諦めやすくて良かったかもしれない。みなさん楽しそうでよろしおすなあ。好きなようにしはったらよいのと違います。
 とはいえ酒を飲みながら書かれた本には違いないから、読者も適当に飲みながら飛ばし読むのが礼儀だと思う。そうして身勝手なペースで話を急かしたり、一方的な解釈を好きな形に捏ねられるのも読書体験ならでは。人間が自由を行使できるのは読書中だけなので、私はなるべく沢山の誤読を積み上げたい。貴方の誤読も斜め上から拝読したい。読書と勉強を同一視するなんてとんでもないことです。
 本書によるとソクラテスが飲んでも酔わない男であったことにはすべての歴史家が合意しているらしい。酔わないことで賞賛される男たちの先駆けではないかと著者は言う。

 よく考えてみればこれは、自慢するようなことではなく、喜ぶようなことですらない。LSDをやっても全然幻覚を見ないと、自慢している人を想像してみてほしい。あなたはたぶん困惑し、意識を変容させてくれるわけでもないのにどうしてLSDをやるのかと、丁寧にその人に尋ねるだろう。
 だがアルコールの場合は違う。歴史上のあらゆる時代に、酒を飲んでも全然変わらないことを誇りに思う人物、それゆえにあがめられる人物、そのことを自慢する人物が存在する。彼らはなんと強いのかとわれわれは思う。われわれは彼らを尊敬し、あこがれ、意見に耳を傾ける。「じゃあ、なんで飲むの?」とは、誰も訊こうとしない。

 なんで飲むのかはもちろん、尊敬し、あこがれ、意見に耳を傾けてもらえるからです。ソクラテスなんて絶対ひとりじゃ飲まないタイプでしょう。潰れていない人間を見つけては延々と絡み続けたに違いない。人が集まるなら酒でなくとも良かったし、素面でも輪に入れるなら自分が飲む必要は無かった。そういった人種についてもう少し掘り下げても良かった気がするけど、たぶん本書の趣旨とは異なるのだろうな。酔わずに済ませる話になっちゃうもんな。
 本書では割と重要な事実もさりげなく書き流されてしまうが、著者が相当の偏執狂であることは端々からうかがえる。

 かなりの確信をもって言うが、シェイクスピアはワインを飲んでいたに違いない。彼の作品は100箇所以上でワインやサック酒に言及しているが、エールへの言及箇所は16箇所しかないのだ。

 本当ですか。40作ぐらいらしいから数えられなくもないんだろうけど、そういう読み方はどんな気持ちで続けるのだろう。やっぱりゼミの院生とかに手伝わせるのだろうか。結局ここまで読んで著者がどんな人物なのか調べてしまいました。
 マーク・フォーサイズの正体がヤバい!本名は?年収は?彼女はいるの?素性を気にしないのが文明社会じゃなかったの?
 最近うちの5歳児も使うようになりましたがヤバいって何でしょうね。キャッチーで使いやすいぶん見出しにあると馬鹿にされている感じがする。選挙カーから名前を連呼されているときと似たような気持ちになる。ヤバいは江戸時代からある言葉のようですが、話を戻すとマーク・フォーサイズも語源の研究家だそうです。あと本書の著者名以外ではフォーサイスと表記されているので、検索はそちらでお願いします。

Mark Forsyth: マーク・フォーサイス: 政治における言葉について | TED Talk

 言葉と現実の相互干渉、とても興味深いお話だった。考えている内容は面白いのに言い方とかで損する方面の人かもしれない。ぜひ他の著作も読んでみたいと思います。
 取り急ぎ5歳児にはドラえもんの国語辞典を買ってみたけど、辞書は作る手間の割に価格が安すぎる気がする。大丈夫なんだろうか。

19-04-18 21:30 , 感想 , Commentaires (0) ,

バーフバリ 王の凱旋(2017)

 いろいろ面倒で死にたくなるけど、どうせ死ぬなら団信に加入してローンの支払いを始めてからの方がいいなと思った。気晴らしに観る映画はバカなやつがいい。
 私はバカな映画が好きだ。人間のバカな妄想が少しだけ具現化されて映画になる。さらにお金をかけると箱物やテーマパークになる。普遍的な夢や願いが見え隠れしていて、様々な公約数へ想いを馳せながら罪悪感なく時間を浪費できる。どちらかと言うと映画を作る人たちのことが好きなのだろう。
 映画は娯楽であって乗るか乗らないかの二択だ。ときどきアクションやファンタジーを蔑む自称映画通の人がいるけど、こいつ何も分かってねえなと思う。現実味が無ければ駄目らしいが、お前の好きな社会派サスペンスも本業の現場ではありえない言動してるぜ。雛壇芸人と一緒に再現ドラマの演出で喜んでいるうち虚構と現実の区別が付かなくなったんじゃないか。
 考えることに疲れたら『バーフバリ 王の凱旋』でも観ながら少し休んだ方がいい。二部作の後編だが前後どちらから観ても構わない。鑑賞すると知能指数が下がって語彙力を失う代わりに体調が回復することで知られている。つまり週明けから出勤できるようになる。
 冒頭はゴール間近の聖火ランナーへ迫りくる暴れゾウ、逃げまどう民衆、そこへ大型ねぶたを曳いた男が門扉を破壊しながら現れて間一髪でゾウをはねる。従者が「見事だ」と呟く。ゾウはウコンの力で鎮められ、男の前に膝を折る。絶対的なパワーと人徳を備えた神の物語であることが示される。
 神話であるため人間用のセキュリティは通用せず、中ボス未満の敵は一括削除されてしまう。古代インドの王族ならあるいは、と考えそうになるが実際どこからが過剰な演出にあたるのか境目が見えない。儀式のルールもよく分からないし、カタカナで長い名前を言われても覚えられない。ただ凄そうな雰囲気に流されていくばかりだ。
 しかし俳優と脚本がいいので、偉いおばちゃん、悪いおじさん、不運な兄貴ぐらいを認知できれば話は分かる。また、随所に見られるご都合主義的な物理法則は隠喩の可視化である。岩をも砕く拳は岩をも砕く。天にも昇る心地で天にも昇る。まして相愛の者たちが睦まじく踊っていればそういうことだ。まんがインド昔ばなしと割り切れば何も考えずに眺めていられるし、子どもに見せて大丈夫なのかと心配する必要も無い。大丈夫です。
 前編『伝説誕生』はお調子者のストーカーだった息子が親父の武勇伝を聞いて立場を自覚する話、後編『王の凱旋』は武勇伝を最後まで聞いて親戚へ復讐する話である。『王の凱旋』は開始以降の八割が回想シーンで、奴隷剣士の爺さんが語り部を務める劇中劇となっている。
 奴隷剣士は従順な一兵卒を装っているが、彼こそ王の伝説を操る扇動者に他ならない。自身については謀略に巻き込まれた悲劇の忠臣として描かれるが、実はそのほとんどが本人の供述している内容に過ぎない。観客が熱狂しているのも親父の武勇伝に該当する箇所が大半で、構造上は息子も観客も爺さんの昔話に乗せられていることになる。
 武勇伝では、誰が何を話していたのかという言質の管理が徹底されている。正しき王族は決して誓いを破らないため余計な言葉を口にせず、後から嘘になるような台詞はいつも周囲の人間に喋らせている。一方、悪しき者どもは謀略の一部始終を自分の言葉で解説させられる。本人が言っていたから本当なのだ。悪いおじさんが身内への殺意を口にしたとき、側近たちは異常なほどのうろたえ方を見せていた。王族の言葉が直ちに現実となることをみんな理解しているのだ。やらないなら私がやりますと偉いおばちゃんが言ったとき、阻止するために奴隷剣士が代わったのはやむを得ない判断だった。さらに大きな悲劇を防ぐためには仕方が無かったのだ。
 息子はつい先ほどまで敵対していた爺さんの口車に乗って、丸腰の民衆を巻き込みながら王宮へ攻め込もうとしてしまう。反体制派と一緒に再現ドラマの演出で喜んでいるうち虚構と現実の区別が付かなくなったのかもしれない。四半世紀来の証人が勢揃いしているからOKみたいな構図になっているけど、皆さんまともな判断はできているのだろうか。また悪いおじさんの罠だったらどうするつもりだ。
 ところが息子は親父の逸話を上回るバカ戦術で城壁を落としてしまい、ちょっと何なのかよく分からない仕組みで聖火をゴールさせて伝説を上塗りする。斜に構えていた観客は死ぬ。親父の武勇伝に思い出補正は無かったし、周囲の過剰な期待や焦りは間違っていなかった。どれほど理不尽であろうと結果は初めから決まっていて、全ての出来事が前振りだったことにされてしまう。バカまみれの描写ながら、観れば観るほど必然性の強化されていく恐ろしい物語。私はもう国歌だけ覚えて眠ります。おやすみなさい。

Maahishmathi samrajyam
マヒシュマティ王国よ

Asmaakam ajayam
千代に不滅なれ

Aa surya chandrathaara
太陽 月と星の

Vardhathaam abhivardhathaam
輝き続ける限り

 ところでアビバッダタームのアビは、阿鼻地獄の阿鼻でしょうか。

19-02-24 19:00 , 感想 , Commentaires (0) ,

印象派の思い出

 何気ない一言が人を生かしも殺しもするから、なるべく誰かを救うような言葉を探したい。不意にフラッシュバックさせるならクソみたいな応対に費やした場面ではなく美しい音楽、展覧された美術、それらを一緒に眺めた誰かの横顔、ただし思い出は今ある自分自身の一部に過ぎず、過去はどこにも存在しない。今あるものは全て変えられる。
 平日の私は非常に徳の高い聖人であるため、社会経験があることを利用しながら真顔で根拠も無く若者を褒めたり、手の施しようが無い相手を都合の良い解釈で励ましたりしている。絵空事を通すには自らそれを真実だと信じ込むこと、先手を打って外堀にも種を蒔いておくこと、そしてあまり厳密さにこだわらず、相手の消化しやすい物語で妥協すること。いちど共有されたイメージは検証を待たずに人々を動かし、好循環のうちには駒の出そうな瓢箪もできる。秘密裏に仕組んだピタゴラ装置の成功を見届け、その存在すら悟らせずに撤収できたとき、私の承認欲求は成仏するだろう。何かを育てることはとても楽しい。
 近く死ぬ予定は無いが、不意にエンドロールが流れても取り乱すことの無いよう、試せる思いつきは一通り試しておいた方が良いと思っている。走馬灯もなるべく普段から回しておいた方が良い。私たちはすでに全てを手に入れていて、そこから自分の好きなものを正解にできる。周りに期待する必要は一切無いし、まだここにない出会いは無いままで構わない。あれば誰かが死んでいた恐れも増すはずだが、競争社会ではここにない何かのポジティブな面ばかりが強調される。そして情報社会では一部が信奉する一流の理想論へ簡単にアクセスできるため、そこへ合致しない自分を卑下してしまう真面目な人間が続出する。しかし理想は成就しないのが普通だ。たいてい道半ばで死ぬし成仏しない。私たちはいつかどこかへ到達するよう知らぬ間に刷り込まれてしまうが、その意識が誰に掛けられた呪いなのかをときどき省みる必要がある。そう言われて本当に省みる必要があるのかも省みる必要がある。
 前述のピタゴラ装置は他人から無断で搾取するのに適しているため、もっぱら身勝手な大義を掲げた大人たちに悪用されているようだ。世の中は私のような有徳のイケメン文化人ばかりではない。金も払わずに誰かの時間を奪い、さも本人の意思で差し出されたかのような印象を振りまく詐欺が横行している。反論を無粋に見せる美しい物語の濫用、弱者の自己犠牲に乗じなければろくに収益も上げられないセンスの無さ。仮にあなたの望む有能な若者が実在したとして、なぜ彼らがあなたのために尽くさなければならないのか。何か勘違いしているのではないか。
 不意にフラッシュバックさせるならクソみたいな応対に費やした場面ではなく美しい音楽、展覧された美術、美術館の品々を少し離れて眺めると、ひとつひとつの関係性が僅かながら見えてくる。無論そのように配置されているためでもあるが、知りたい事物に対しては複数の距離を使い分けるのが効果的だ。私たちの日常はインスタントな勝ち負けや損得勘定が幅を利かせた無間地獄にあるので、ときには意味も無く山を歩いたり、目的意識を抱かず美術館へ向かわなければならない。そして現場で見たくなったものだけを眺めて帰る。できれば未就学児にも同伴いただいて、その忌憚なき振る舞いを見学させてもらう。子どもは巨匠も順路も無視して走り去ろうとするが、ときどき作品と同じポーズを試みたり、描かれていないはずの動物の影を見出したり、持参の双眼鏡を逆さに覗いて館内を見渡したりする。非常にうらやましい。大人も負けじと同じ表情を試みたり、どのような物語の挿絵になるのかを捏造したりする。私たちは何に悩むべきかを自分自身で決めて良い。好きなときに好きな問題へ取り組めば良いのだ。
 下界へ戻ったあと改めて打算的に考えてみても、ただ脳裏の苦しみをリピート再生している時間は大変もったいない。どうせ何かを思い出すなら後続のための道標を残したり、そもそもの危険物を淘汰できるようなピタゴラ装置を開発した方が楽しいのではないか。不安の尽きることは無いが敢えて真理の追究にはこだわらず、いま手の届く悪から順に滅ぼす。汚物は消毒だ。私たちの苦労は、後の者が同じ苦しみを背負わずに済んだとき初めて報われる。
 いま私は恐ろしくホワイトな環境で公私ともに恵まれながら人畜無害な紳士を演じているが、ときどき原因不明の虚無感に襲われて身動きできなくなることがある。周囲に何ら興味も楽しみも見出せず、先々をイメージする力が根こそぎ奪われたかのようだ。過去を忘れたつもりの当人も結局はその蓄積から構成されているのだろう。湖底で何かが起こるたび沈殿物が舞い上がって辺りを暗く濁らせる。その正体を捕捉できるまで静かに待ちたいが時間は何も解決しない。むしろ次の平日が迫り来る閉塞感から何も手に付かず夜も眠れなくなる。それでも根は真面目で大変優秀な人材だから朝になれば職場へ向かい、汎用ご親切マシンとなって勤勉に働いてしまうのだ。ショートコント出勤。優しい方の職員。親切だと言われれば嬉しくなるが、親切はファッションだから自己満足でも構わない。それを下心の表れであると決めつけてしまう人もいるが、実感としては他人と会うための装備に過ぎず、偽善とさえも呼べないものだ。たぶん女性がメイクするのと変わらない。
 また明日から、他人のどのような態度を目の当たりにしても上手に解決できることを目指す大人を演じ続けることになる。みんなもがんばろうな。私の目標は、いつもにこにこしているが状況をきちんと理解できているのかどうか傍目にはよく分からないお年寄りになることだ。そして最期は、綺麗な湖を望むお花畑の住人として社会的に抹殺されたいと考えている。もう普通の願い事しか思いつかないので、みんなの夢を聞かせてほしい。

18-09-30 19:50 , 日誌 , Commentaires (0) ,